わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。(マタイ6章13節)
自分が弱いことを、私たちは認めたくありません。プライドがあって自分は大丈夫だ、と心のどこかで思い込んでいます。ペトロがそうでした。主イエスから「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われると「たとえ,皆がつまずいても、わたし(だけ)は決してつまずきません」と、自信を示しました。しかし、主が捕縛され、自分の身にも危険が迫ると、ペトロは三度も主を否みました。まさか、こんなことになるとは…。人は本当に弱いのです。主は、私たちの弱さを誰よりも、よくご存じでした。だから、冒頭の聖句を言われたのです。
誘惑に遭ってもそれに打ち勝てるように、とは言われていません。誘惑に負けないようにしてください、とも言われていません。誘惑そのものに遭わせないでください、と祈るよう主イエスは教えています。消極的に思えますが、徹底して弱さを知ることが求められています。それと誘惑者が人間以上の存在だからです。悪い者=悪魔サタンを意味します。そのような悪から救ってください、と祈るのは、悪に打ち勝つ力や強さを求めるのではなく、自分の無力さ、弱さを受け入れ、自力では何もできないことを認めることだからです。そこで主は「誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と、祈るよう教えたのです。
誘惑と試練は正反対の結果に至らせます。誘惑は人を堕落と破滅に陥れ、試練は信仰を強め人を向上させます。新約聖書の言語であるギリシャ語では、誘惑と試練は同じ言葉です。ですから文脈によって、どちらに訳すべきかを判断します。神は試練を与えても、誘惑はされない。誘惑は悪魔から出ます。しかし、悪魔は神の許可なくしては人を誘惑できません。悪魔の働きの背後に、神の絶対的な主権を認める信仰が主の祈りには示されています。世の中には何と多くの誘惑が巧妙に仕組まれていることでしょう。神から力を受けて自分で悪の誘惑を打ち破ろうとしがちですが、逆にますます泥沼に陥るのが現実です。前述のペトロがその一例です。同じ出来事に遭遇しても、ある人には悪への誘惑となりますが、他の人には試練となって神に信頼する信仰が成長します。違いは、弱さを知って、主に全く委ね切ることです。そのとき、神の力が働きます。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主は言われます。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。(Ⅱコリント12章9,10節)