2023年8月13日
主日礼拝

《建徳要旨》
①ヨハネ15章1~5節:わたしはまことのぶどうの木…あなたがたはその枝である。
一本の藤の巨木につながっている枝に美しく咲く壮大な藤棚(足利の奇蹟の大藤)の生命力に感動し、冒頭の聖句を連想。1~11節の短い区切りに原語動詞メネインが10回も出てくることに気付き、繋がっている・とどまると訳されている意味を改めて味わいました。主は御自身を示されるのに、命のパン・世の光・良い羊飼い等のたとえを用いられましたが、最後に宣言されたのは「わたしはまことのぶどうの木」でした。旧約ではイスラエルの民がぶどうの木にたとえられていて、神が愛を注がれ良い実(選民にふさわしい信仰と愛)が実るようにと植えられたのに、悪い実(背信と偶像崇拝の罪)がなってしまったと嘆かれ、荒廃と滅びが予告されています(イザヤ5:1-7エレミヤ2:21他)。しかし、神は憐れみによって新しいまことのぶどうの木(新しいイスラエルを象徴する御子イエス・キリスト)を植えられ(世に遣わされ)御子を信じて罪を赦され、神に立ち帰る救いの道を与えられました。神の愛と命を注がれるまことのぶどうの木につながる枝が、私たちクリスチャンであり、主と一体の存在になって信仰と愛の実を結ぶことができます。これが、一つの存在が多くの存在によって形成されている、というヘブライ的な物の考え方だと言う。モーセが「聞け、イスラエルよ」と民に対し一人の人のように呼びかけ、パウロが「教会はキリストの体であり、一人一人はその肢体」と述べているのも、集合的人格というヘブライ的思考によるとのこと。彼が回心した時、「私はあなたが迫害するイエスである」との御声を聞いて、すぐにその意味が理解できたのもそのため。私たちも主の集合人格の内にとどまる兄姉として、愛し合い、赦し合うことができ、良い実を結べますように。       (柴川)

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2023-08-13 柴川姉)