2023年8月20日
主日礼拝

《建徳要旨》
ヨハネ15章15:私の言葉にとどまるならば」の「とどまる」の原語は、15章のぶどうの木につながってていなさいと同じメノウです。「とどまっている瞬間は」という表現で、「とどまり続けなければ」という意味が含まれます。また、「私の言葉を守るならば」といった行為として受け取るのは、福音的ではないと思います。「私の言葉を信頼し続けるならば」という意味だと思います。真理は、あなたがたを自由にする。「真理」の語源は、「ありのまま」という意味です。また、自由とは「~からの自由」と「~への自由」の2つの意味が含まれていて、奴隷から解放される自由と人とのつながりに向かっていくための自由だと思います。イエス様を信じて罪から救われ、義と認められた後は、二次試験三次試験があるわけではなく、ただイエス様を信頼することで自由になれます。がんばって教えを守るのではなく、もっとしなやかで、ありのままで受け入れられるのです。  (小林)

ローマ1313,14節:闇の行いを脱ぎ捨て,光の武具を身に着ける。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまとう。パウロにとってイエス・キリストは、今、ここで生きて働かれる力ある霊的実在者。そのキリストを意識的に着て、覆い包まれるので、私は消えキリストだけが見える。そして、礼拝の時だけではなく、毎日の生活に於いてキリストを着ていることです。キリストに覆い包まれ、私が見えなくなる。それを、キリストを着ると表現し勧めています。同時に、洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです(ガラテヤ3:27)洗礼を受けると、古い自分が死に、キリストに包まれる。私が消えて、キリストだけが見える。洗礼を受けた人は既にキリストを着ています。でも、そのことを忘れるのです。だから、私たちも意識的に日々キリストを着て、私が覆われキリストが前面に出る者でありたい。  (浜田)

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2023-08-20 小林兄、浜田兄(19:30))