ネヘミヤの姿勢:前回のエズラとの違いについて。
こうして、わたしはユーフラテス西方の長官のもとに到着する度に、王の書状を差し出すことができた。王はまた将校と騎兵をわたしたちと共に派遣してくれた。(ネヘミヤ29節)

エズラと相前後して、ネヘミヤは行政官としてエルサレムに帰還します。旅の危険性などはエズラの時と全く同じ状況です。それに対してネヘミヤは、ペルシャ王に護衛の兵と通過書状を求めました。使命を果たすためには、旅の途中で命を落とすことはできないからです。護衛の兵を求めたことは、それを求めなかったエズラとは違っています。ネヘミヤの姿勢は、神にだけ依り頼む信仰が欠けていたと考えるべきでしょうか。聖書はそのようには言っていません。どちらの姿勢も肯定されています。人間的な立場からすれば、エズラはネヘミヤの求めを不信仰だ!と批判できたでしょう。また、ネヘミヤからすれば、エズラの態度は常識的ではなく非常識だと批判できたでしょう。ところが、両者共そうした批判はしていません。ここに、聖書の持つバランス感覚があります。それはいつの時代、どこの国に於いても言えます。エズラもネヘミヤも、主の前で選んだ決断でした。

モーセとホバブ(民数記102932節)
出エジプトから約束の地までの旅路を導いたのは、神の臨在を表す「雲の柱と火の柱」でした。昼は雲が夜は火が目印となって民を導いたのです。それに頼れば十分なはずです。ところがモーセは、荒野の地理に詳しい義兄のホバブに「私たちと一緒に旅路を行きましょう」と誘います。ところが、ホバブは「いや、行く積りはない。故郷に帰りたい」と断ります。するとモーセは「どうか、私たちを見捨てないでください。あなたは荒れ野のどこに天幕を張ればよいか、よくご存じです。わたしたちの目となってください」と必死に懇願します。これは、神の啓示と導きがあるとしても、モーセの分別や判断に委ねられた部分があり、それでモーセはホバブの助けを求めたのです。それは神に対する不信仰だ!とは言われていません。両面があるからです。神の言葉である聖書と聖霊の導き=雲の柱と火の柱。それを第一にしつつ、ホバブの意見と導きを求める在り方の両面があります。エズラとネヘミヤの両面が、健全な信仰のバランスとして必要なのです。