このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい」         (創世記43章14節)

これは父ヤコブの言葉です。失うまいと握り締めていた末子ベニヤミンのことです。あくまで執着していた思いを吹っ切り、失ってもよいと覚悟しています。王妃エステルが「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります」(エステル4章16節)と言ったのと同じ響きがあります。エステルは同胞を救うためなら、自分の命を失っても良い、と命懸けで王の前に出ます。これほどの状況に追い込まれることは、余りないでしょうが、ここに盛り込まれた信仰に生きる必要に迫られることはあります。最も大切にしているものを捨てる覚悟です。それは自分を捨てることによって、それまで曖昧だった、神への道が開けるのです。神に近づくためには、獲得することよりも手放すこと、執着している自分を捨て、自由になる必要があります。そうすれば、先々への不安や失ったらどうしようか、との心配から解き放たれるのです。

さて、父ヤコブの決心によって、兄たちは末子ベニヤミンを連れてエジプトへ下ります。そして、ヨセフの前に出ます。ヨセフは自分が弟であることを秘めて何知らぬ顔で応対しますが、次のようです。
ヨセフは同じ母から生れた弟ベニヤミンをじっと見つめて、「前に話していた末の弟はこれか」と尋ね、わたしの子よ。神の恵みがお前にあるように」というと、ヨセフは急いで席を外した。弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったからである。ヨセフは奥の部屋に入ると泣いた。やがて、顔を洗って出て来ると、ヨセフは平静を装い、「さあ、食事を出しなさい」と云いつけた。 (43章29~31節)

食事の席次は年齢順になっていたので、11人の兄弟は驚いて、互いに顔を見合わせます。一同はぶどう酒を飲み、ヨセフと共に酒宴を楽しみました。ヨセフは22年前にエジプトに売られてからのことが、走馬灯のように脳裏を駆け巡っていたに違いありません。しかしヨセフは次の策を講じます。44章です。愛用している銀の杯をベニヤミンの穀物袋の中に潜ませます。そんな事とは知らない兄弟らは、和やかに帰路を急ぎます。すると背後から馬に乗ったエジプトの兵が追いかけて来るではありませんか。驚き、振り返ります。