はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者 の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。
(マタイ福音書25章40節)

マタイ福音書において、初期の「山上の説教」に匹敵すると言われる。最後の教え(23~25章)の結びにあたる「すべての民族を裁く」(25:31~46)の御言葉を示されたのは、日本でもコロナ禍が急激に拡大した、昨年末の主日でした。

世の終わりに、再臨の主が栄光の座に着かれ、すべての国の民を裁かれる壮大な光景(黙示録に記されている)です。その審判が済んだ後に、つまり、行いによらず信仰によって羊(主の救いを信じて永遠の命を与えられた者)と山羊(主の救いを拒み滅びる者)に分けられる判決が下されてから、その生きた信仰から生まれる良い実、愛のわざを証拠として説明されていることに気付かされました。それは、「私の兄弟であるこの最も小さい者」に対する小さな親切、愛の行いです。この「小さい者」とは、キリスト者であるとの理解によって、当時(使徒時代)から歴史上激しい迫害を受けたキリスト者は、慰めと励ましを与えられたことと思います。

一方、この小さい者に対するもう一つの理解に、キリスト者とは限定せず、もっと広い意味でこの世で貧しく、苦しみ困窮している人であるという考え方があります。マザーテレサは「キリストは、貧しい人、飢えている人、病める人、宿のない人の中におられる」「キリスト者であるなら、キリストのようでなければなりません」と言っています。

主イエスは、すべての人の主であり、すべての人が救われるために十字架で死なれたのですから、主の恵みと支配は私たちの思いを超えています。貧しく、苦しみの中にある人々と一体となっておられる主を示される時、今、コロナ禍で苦しんでいる人々に対して、水一杯のような小さい親切愛をキリスト者としてどうあらわしたらよいか、個人としても教会としても求められていると思います。主の導きと憐れみを祈りつつ。 (E・S)