主のわざを行うことを怠る者はのろわれる。また、その剣を抑えて血を流さない者はのろわれる。 (エレミヤ48章10節・口語訳)
この聖句は、中世ヨーロッパで起きた十字軍に参加した者が愛好したと言います。十字軍の戦いは政治的な動機から始まっていますが、旧約聖書が拠り所になりました。確かに、そのような読み方もできます。また、アメリカの独立戦争では、南北両軍とも、戦いの理由を正当化する時には、旧約聖書を引用しました。すると、敵を殺すことに何ら良心の咎めを感じなかったのです。しかし、旧約聖書をそのように読むことは聖書の意図に適った、正しいことでしょうか。それは前回触れたシオニズム(パレスチナの地にユダヤ人国家を建設しようとするユダヤ人の民族運動)についても同じことが当てはまります。クレイギ著『聖書と戦争』から引用します。
「現代のイスラエルは、その憲法の定めるところによれば、法的にはユダヤ人国家ではないが、より一般的な意味では、確かにユダヤ国家ではある。しかし実は世俗的な民主主義体制を採用している、近代国家の一つである。ユダヤ人にとってパレスチナの地は、神が神の民に与えられた祖国(安住の地)である。そこへの帰還は、シオニズムにとって根本的な意味を持つ。」
ただ問題なのは、パレスチナの地には先住民が住み着いていたことです。ヨシュアが命じられたのは、約束の地に先に住んでいるカナンの住民と戦って滅ぼすことでした。その最初がエリコで、信仰によって崩れた堅固な城壁を越えて、その住民を「男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」(ヨシュア6章21節)のです。この場合の殺害は、神に献げるためでした。だから、殺害に際して良心の呵責を感じませんでした。その戦いは聖戦であり、信仰に基づく行為として理解されました。それはヨシュア記や士師記を読む私たちにも受け継がれ、霊的な解釈をしているのです。同じ理解をシオニストたちもしました。だから、先住のパレスチナ人を無慈悲にも追い払えたのです。そもそもその地をパレスチナと呼んだのは、宿敵であったペリシテ=パレスチナに当てはめているからです。サウルとダビデが戦ったのがペリシテ人です。パレスチナ人=ペリシテ人は追放すべき敵でした。現代のイスラエルがガザで行っている背景が読めます
