ハバクク②:信仰の「しかし」(ハバクク3章の祈り)
ハバククは1章の冒頭から、神に叫び求めました。そして2章で、信仰によって生きることを示された彼は、楽器の調べに合わせて祈ります。バビロンによる圧制と苦しみの現実は続いているとしてもです。高慢なバビロンが神の御手によって打たれ裁かれると、神から告げられたからです。それに対しての御言葉です。
それを聞いて、わたしの内臓は震え
その響きに、唇はわなないた。・・・・わたしは静かに待つ。
我々に攻めかかる民に苦しみの日が臨むのを。 (16節)
神は悪を放置されないで、怒りの裁きをくだされることを聞いて、畏敬の念で彼の内臓も唇もわななく。そして、そうなる日を信じて、わたしは静かに待つ、とハバククは祈りました。
いちじくの木に花は咲かず、
ぶどうの枝は実をつけず
オリーブは収穫の期待を裏切り、
田畑は食物を生ぜず
羊はおりから断たれ、
牛舎には牛がいなくなる。
しかし、わたしは主によって喜び、
わが救いの神のゆえに踊る。
わたしの主なる神は、わが力。
わたしの足を雌鹿のようにし
聖なる高台を歩ませられる。 (ハバクク3章17~19節)
何の収穫もない悲惨な状況、嘆くしかない現実を前にしても、主によって喜び、私を救ってくれた神のゆえに踊ると祈っています。この「しかし」は、信仰から来ます。常識からは出て来ません。たとい、目の前の現実は絶望でしかないとしても、ハバククが訴え祈った神は、絶望の向こうに輝かしい希望を用意されている御方です。だから、周囲の状況、置かれた環境がどのようであったとしても、ハバククは「しかし」「それでも」主にあって喜び、踊ると言いました。
アブラハムを始め、多くの聖徒たちは、この「しかし」によって、神からの力と助けを受け取りました。「彼(アブラハム)は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。」 (ローマ4章18~20節)
預言者ハバククの祈りが、災害等に遭って「なぜ、私だけに?」と、疑念を覚えておられる人々の理解を助け、ハバククと同じ祈りとなるよう願っています。
