2025年8月3日
主日礼拝

主はマルコ11章23~24節で,「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と言われた。でも、私にはそんな信仰はないから、山を動かすなんて無理 だと思い込んでいた。でも、山というのは自然界の山ではなく、私たちの前に立ちはだかる自分の力では手に負えない問題のことであり、主は「それは私が取り除いてあげるから私の力を信じなさい」と言われたのだと気づいた。だとすれば私たちに言えることは何か,それは「ありがとうございます」だ。私たちはとかく主の恵みを確認してから感謝する。しかし、本当の感謝は、まだ実現していなくても、主を信じて献げる「信仰による感謝」だと教えられた。   (人見)

②マタイ53節:心の貧しい人は幸いである原文は、貧しい人々、霊との関りにおいて、と表現され、神との関わりに生きる人の霊の貧しさを意味するとの理解があります。神と人は霊による関係ですから。また、貧しいは徹底した貧しさ、物乞いする程の欠乏を意味するギリシャ語が用いられていることを知り、驚きました。あのマルチン・ルターが死ぬ2日前に残した短い文章の結びに、われわれは物乞いにすぎない。それは本当だ、と記されている文章から、ルターが神との霊の交わりに生きた信仰の生涯は、唯神の憐れみ、恵みを乞い求める貧しい者でしかなかったとへりくだり、神を崇め、主を讃えていることを示されました。主のたとえ話「金持ちとラザロ」(ルカ16章19~31節)でラザロ(神は助けるの意)は、神の助けなしには自分では生きられない貧しい欠乏の姿、実は人間の本当の姿であり、私たちはラザロであることを示されました。(柴川)

礼拝讃美歌394:恵み溢るる 父なる神に 求めよさらば 与えらるべし たとい天地 震い去るとも 主のみことばは 絶えて変わらじ。

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2025-07-27 人見兄、柴川姉(17:00))