2026年9月27日
主日礼拝
①イエスは明らかに普通の人ではありませんでした。イエスの宣教が進むにつれ、人々のイエスに対する評価は両極端に分かれて行きました。神の子とも狂人ともいわれ、教師とも惑わす者とも、良い人とも悪霊につかれているともいわれたこのイエスとはいったい誰なのでしょうか?この質問には、個人的に一人一人が答を出す必要があります。マルコによる福音書8章で、イエスは、人々は、わたしのことを何者だと言っているかと尋ね、さらに重ねて、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねられました。今日もイエスはすべての人に同じことを尋ねておられ、この問いに対する各人の答がその人の生死を決定します。イエスは神の子であり、私の主であると答えるならその人は生きるのです。この方こそ、すべての人の主です(使徒言行録10章36節)。 (中山C)
②ルカ9章23節:自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従いなさい。イエスさまが言われた本当の意味が、やっと分かりました。キリストに従うのは何か悲壮で、大変なことのように思えますが、「自分の力だけですることを止め、キリストに徹底して明け渡す」ことです。十字架を負うのは、神に対して生きるためで、キリスト中心の生き方に変えられることです。それは日々自分(自我)をキリストに明け渡すことです。そして、キリストと共に十字架を背負うのです。ただし、背負うのは私ではなく主です。それを示すのが次の聖句です。マタイ11章29節:私は柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い=これが十字架です。私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。イエスさまが言われたのは、信じて従う者に安らぎを与えるため、上からの力を与えて一切を明け渡す生き方に招くためだったのです。 (浜田)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2026-09-27 中山C兄、浜田兄(16:00))
