2026年2月1日
主日礼拝
①聖書の中の命令はみな、私たちの中に聖霊が働き、実現していくものです。ですから私たちがそれを目指して努力したり、それができないからと悩んだりする必要はありません。「光あれ」と神が命令すると、光がありました。片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」とイエス様が言われると、手は元どおりになりました。同じように、「愛しなさい」と主が言われるとき私たちの心に愛が流れ込み神の愛が溢れます。「喜びなさい」と主が命じると喜びがあります。「完全な者になりなさい」と主が命じると完全な私たちが、そこにいます。神が命じるとき、不可能に思えることが可能になるという命の法則、これが聖書の福音です。宗教は人間が何をしたか、何をすべきかを論じます。これに対し、聖書は霊的な事実の記録であり、その霊的な事実を認めることが信仰です。努力やがまんは必要ありません。主の言葉は必ず実現します。 (中山C)
②ヨハネ1章1節。初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。ヨハネにとってイエスさまは、クリスマスに初めて生まれた方ではありません。世界が創造される初めから存在される神でした。14節:言は肉となって、私たちの間に宿られた。宿られた=天幕を張られた、という意味。出エジプト25~27章の幕屋はイエスさまのこと。幕屋には庭があり、幕で囲っています。これは人間の体を表現しています。そして4節:言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。暗闇を照らす光であり命のことば、それが主イエスであり、聖書です。エフェソ1章4節:天地創造の前に…。天地創造の前、私たちが存在する遥か前から、深い縁によってキリストにおいて選ばれ、結ばれていたのです。それを示すために、イエスさまは肉となって、わたしたちの間に宿られたのです。 (浜田)
礼拝讃美歌78番:人とは なり給えど 神の御栄え 御徳 備えませるイエスより 愛の神 現れぬ。
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2026-02-01 中山C兄、浜田兄(11:30))
