2025年10月19日
主日礼拝

ヨハネによる福音書93節:イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。ユダヤ教の律法主義の不幸に対する考え方で(出エジプト記34章7節)、仏教文化に暮らす私たちにも因果応報の考え方は馴染みがあります。しかし、イエス様はそれを完全に否定しました。また、クリスチャンはここを「試練は、神様の訓練である」と受取りやすいですが、困難の意味がわからず必ずしもそう受け取れないほど苦しい場合もあると思います。ですので、ただ神の業がこの人に現れなければならない、と訳すほうが私にはしっくりきます。また、この人はイエス様の「池に行って洗いなさい」という命令に即座に従いました。命令に服するところから、信仰は始まることがあると思います。その結果、イエス様(遣わされた者)に清められて、以前の彼と同一人物とは信じられないほど大きな変化があったのです。 (小林)

創世記2章7節:主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。命の息=神の霊が吹き入れて初めて、生きるのです。だから、神の霊が取り去られると形はあっても、生ける屍(しかばね)です。ヨハネ20章19~23節:恐れと不安から部屋に閉じこもっていた弟子たちの前に、復活のキリストが現れ、その真ん中に立って弟子たちに、命の息を吹き入れられたのです。弟子たちは自分の命を守るため主を見捨てて逃げたのですが、そのため霊的には死んでしまい、神の霊を失っていました。だから主は息を吹きかけられ、聖霊を受けよ、と言われたのです。それと同じことを復活の主は、礼拝に集っている私たちの真ん中に立ち、命の息を吹きかけてくださいます。信じる者は既に聖霊をいただいていますが、礼拝ごとに新鮮な思いで、主から命の息を受け取り続けたいものです。        (浜田)

 礼拝讃美歌516番♫主よ御許に近づかん 昇る道は十字架にありともなど悲しむべき主よ御許に近づかん

讃美歌解説 礼拝讃美歌349番(金子)

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2025-10-19 小林兄、浜田兄(15:30)、金子姉(33:35))