信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。
(ヘブライ11章9,10節)
最初、上記の聖句を読んでも、信仰によって生きることとのつながりがよく分かりませんでした。ここを理解する鍵は、子のイサクと孫のヤコブの世代まで幕屋(天幕)に住んだ点にあります。甥のロトと別れた後、神はアブラハムにこの土地を与えると約束されました。ところが、その地に住んでも国籍はないままで寄留者、無国籍者として他国に宿るようにして暮らしました。だから妻サラを葬るとき、彼は多額のお金を払って、墓地にする畑地を買い取っています。自分の土地を持っていなかったからです。国籍がないのは不自由な暮らしだったことが想像できます。それでも彼の信仰は揺るぎませんでした。アブラハムは約束の地に着いても、天幕生活をしながら、転々と住まいを移しました。そして、その先々で主のために祭壇を築き主の御名を呼んでいます。そこに、彼の信仰があります。彼は将来与えられる、堅固な土台の都を見つめ、待ち望んでいたからです。
孫であるヤコブ(別名イスラエル)の子孫がイスラエル人ですが、モーセに率いられてエジプトから脱出します。奴隷からの解放です。そして、アブラハムに約束された地を目ざすのですが、途中、荒野を旅します。天幕生活をしながら、地上では旅人であり、仮住まいの身であることを表明しました。それはそのまま私たちキリスト者に当てはまります。乳と蜜の流れる約束の地である天国を目ざして、地上には国籍がない者として歩むのは、私たちの国籍は天にこそあるからです。私たちはこの世では、荒野を旅する者です。
後期の伝説:アブラハムは神の召しを受けたとき、幻の中で一瞬新しいエルサレムを示されました。冒頭の聖句のようにアブラハムが待望した都とは、黙示録に記された新しい都のことです。今から4000年も昔のアブラハムに新しい天と新しい地の幻が示され、聖書は彼に続く子孫(モーセ、ダビデ他)の歩みを記しています。そこに、信仰によって生きる姿があります。