あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺したものは裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。(マタイ5章21、22節)

人を殺さなければ、それで良い。裁きを受けることはない。怒りや憎しみが心の中で燃えていたとしても実際に殺さなければ問題にはならない」と、教えられていたのです。それに対して主イエスは、「そうではない」と言われました。昔の人=律法学者らが問題にしたのは、目に見える行為だけでした。兄弟に怒りを覚えたり、馬鹿者と蔑んだり、愚か者のあんな奴は死んでしまえ!と、呪うことを問題にはしていません。心の中の問題だからです。それが、律法学者らの教えた義でした。それに対して、主イエスは「違う」と言われたのです。行動は心の中の思いに支配されます。憎しみや恨みが殺意を抱かせますし、「あんな人、いないと良いのに」との思いも同じです。実際の殺人は心の中で始まるものだからです。「兄弟を憎む者は皆人殺しです」(Ⅰヨハネ3章15節)とあります。

しかし、心の中に怒りや蔑みを持たないようにと求められると、そんなことは無理だ、と思ってしまいます。「行いさえ完全に義しくできない人間が、心の底から義しく、動機までもことごとく正しくなれと言われても、到底不可能であるにきまっています。これはどうしても私共の古い生命(生まれつきの人間)ではできないことですから、新しい生命が必要になってきますそこで私共が生まれ変わって新しい生命を得るためには、どうしても主イエスが一度死にたまわなければならないのです。それ故、私はある意味でこの山上の聖訓は、主イエスが十字架の約束手形を振出されたようなものと思います」(浅田正吉『主を待つ心』196頁)と、あります。新しい生命であるキリストの生命に与かり、生かされる必要を浅田兄は語りました。主イエスは自らの十字架と復活、そして聖霊の注ぎを先取りして山上の教えを語っておられるのです。それのことを、十字架の約束手形と表現しました。私たちがキリストを信じキリストを自分の内に主として受け入れる時、キリストの命に与り、聖霊が私の内に生きて働かれます。その事を主イエスは求めておられます。