しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかも知れません。(Ⅰコリント15章35節)

体の復活を信じているキリスト者であっても、冒頭聖句のような疑問、どんな体で復活するのか、については簡単には答えられません。霊の体である栄光化された体について、どのように表現できるでしょうか。端的に言えば、復活された主イエスと同じ体だと答えられます。それをコリント書では、「天上の体と地上の体(40節)」「自然の命の体と霊の体(44節)」と表現されています。朽ちるものが朽ちないものに復活し、卑しいものが輝かしいものに復活する、とも述べられています(42,43節)。今の私たちの体は、天上の体・霊の体ではなく、弱さをまとっています。

復活したイエスの体は、閉じた戸を難なく通過できました(ヨハネ20章19節)。しかし、幽霊や亡霊ではなく、肉も骨もある体でした(ルカ24章39節)。それを事前に示したのが、高い山での変貌でした(マタイ17章1、2節)。恐らく、常識的には信じられないのが変貌です。それが復活の主のお体でした。激しく鞭打たれ,皮膚も肉も破れ果てた体で十字架にかけられましたが三日目に復活された時は、手と足と脇腹の傷以外は消えていました。完全に新しい体に変えられて復活されたからです。主がそのように変えられて復活したことは、私たちも同じように変えられることの保証です。主の復活は初穂だからです。それは次のようです。

ハンセン氏病に侵された体で地上の生を終えようとも、栄光の体に変えられて復活する日を待ち望みつつ天に召されたキリスト者たちにとって、どのような体で復活するかは真摯な問題でした。彼らの復活への信仰は、健常な体の者には無い切実さが感じられます。難病や障害で苦しむ人にとっても、それらが無い体に復活できることが大きな希望となります。

ところで、先に召された父や母らと天で再会する時何歳の彼らと出会うのでしょうか。病み衰えた最期の姿ではなく、一番美しく輝いていた時の姿で出会えるはずです。なぜなら、復活の体に変えられたその人と出会うからです。女性なら、一番美しい時の姿です。そこに、神の愛の配慮が見られます。詳細については秘められていますが、それを思うと心が躍ります。