ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、看守長の目にかなうように導かれた。 (創世記39章20,21節)
ヨセフは苦(にが)く、辛い涙を流した。冤罪(えんざい)であるのに、ひとことの言い開きも口にできない。ただ耐えるしかなかった。しかし、主はすべてをご存知。自由と希望を喪失したヨセフのすぐ側におられた。ヨセフが囚人として王の監獄まで移送されるのに、ナイル川を遡って行った。これまで過ごしたポティファル家の監獄ではなく、王の監獄まではかなりの距離があったよう。この移送には、神の摂理が働いている。摂理=天の配剤で、すべてのことが共に働いて万事を益とされる。もしヨセフがポティファルの家に居続けたなら、王と出会う事はなかった。父や兄たちとの再会もなかったに違いない。王の囚人が入れられる監獄に移送されたから、王の高官がヨセフの牢に入れられ、それがきっかけでヨセフは王の前に引き出された。考えも及ばない出来事は、冤罪で王の監獄に入れられたから起きた。しかし、そのような事が何年も先に起きることなど、誰が想像できただろうか。ヨセフの置かれている今は、どん底。光の射さない監獄に閉じ込められている。私だったら到底耐えられなかっただろう。だから主は、ヨセフと共に居て、片時も離れることなく、恵みを施し、看守長の目にかなうように導かれた。信仰の力は、どんなに辛い状況に置かれたとしても、神の恵みを疑わないこと。神に見捨てられた(神も仏もあるものか)、と言ってはいけない。忍耐しつつ、神の愛とキリストの忍耐を学ぶこと(Ⅱテサロニケ3章5節)。主を信じて、ヨセフは前を向いてコツコツと働いた。それから、どの位の月日が経ったのだろうか。
看守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。看守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切、目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。 (39章22、23節)
入獄したばかりの時は、部屋に閉じ込められ、自由がなかった。しかし、そうした月日の後には、監獄内での仕事があてがわれるようになる。ヨセフの高潔な品性は直ぐに知られ、看守長はヨセフを信頼した。それも非常な信頼であった。その背後に主がおられた。
