2026年11月8日
主日礼拝

①イエスは人間としての枠内に収まり切らない何者かでした。⑴自分は天から来たといいました。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる(ヨハネによる福音書6章51節)。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない(8章23節)。⑵天から来るずっと前から自分はいたといいました。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』(8章58節)父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を(17章5節)。⑶自分は神の子であるといいました。神に対してこれ以上の冒瀆はないとユダヤ人たちは考えました。大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた(マタイによる福音書26章65―66節)。 (中山C)

②ルカ15章11~24節:『放蕩息子』の譬話を、法華経の『長者窮子』の譬話との比較で気づいたことを話します。息子は父の家を勝手に出て行き、やがて落ちぶれ、父の許に帰ろうとします。父親は遠く離れていても息子を見つけます。その時,
ルカ15章では:老いた父は息子の許に走り寄り、抱きしめます。普通、老人は走らない。
法華経では:長者である父は召使いに息子を迎えに行かせますが、息子は恐怖で失神します。それで雇人の一人として働かせて、子として相応しくなってから迎えます。ここに大きな違いがあります。この話は失われた息子を見い出した父の喜びが中心。憐れみの故に相応しくないまま子として抱かれる。修行して相応しくなってから迎えられるのではない。それは私たちも同じ。その上で、あなたの神はあなたを喜ぶ(イザヤ62章5節)。ここに私たちの救いがあります。     (浜田)

礼拝讃美歌6番:汚れし我が身も 主の血故に 御父は子として抱き給う。

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2026-11-01 中山C兄、浜田兄(12:30))