2026年11月1日
主日礼拝

①詩篇139篇は、1節の「主よ、あなたは私を探り、知っておられます」という告白で始まり、23節の「神よ、私を探り、私の心を知ってください」という祈りで終わります。「知られている」という告白が「知ってください」という祈りに変わるまでの、ダビデの心の旅路をたどります。

第一に、神はすべてを知っておられます(1〜6節)。ダビデはその知識が「あまりにも」高いと圧倒されます。しかし人は、そのような方の前で自分の罪深さを見られたくないと感じるものです。
第二に、逃げたい、隠れたい私の姿です(7〜12節)。どこへ逃げても神はそこにおられ、闇さえ隠れ場になりません。神の聖さの前で、ダビデは自分の内の闇に気づき、身を隠したくなったのです。それは私たちも同じです。
第三に、造り主なる神と共にいる私です(13〜18節)。ダビデの目は、母の胎で自分を組み立てられた創造主へ向かいます。造った方が造ったものを知っているのは当然です。そして18節で「私はなおも、あなたと共にいる」と告白します。神は私の罪も闇も知った上で、共にいてくださる。だからもう逃げる必要も、隠れる必要もないのです。
第四に、19〜22節の「あなたに立ち向かう者」とは、実はかつての自分自身の姿でした。ダビデの目は外の敵から自分の内側へと向かいます。
第五に、ダビデは「私を探ってください」と祈ります(23〜24節)。「思い煩い」とは「偶像礼拝」とも訳される言葉で、神以外のものを愛する思いです。ダビデはそれを隠さず神に差し出し、とこしえの道に導いてくださいと願います。神の前に心を開くとき、神ご自身が私たちを造り変えてくださるのです。
結びに、二つのことを覚えます。一つは、私たちは神に造られた者であり、神はすべてを知ったうえで共にいてくださること(マタイ28:20)。もう一つは、この神を第一とし礼拝するとき、神が私たちを造り変えてくださることです。ダビデと共に「神よ、私を探ってください」と祈りましょう。(岩上真歩子)

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2026-10-25 岩上姉)