ダビデ:絶えず目の前に主を置く祈り。
私は絶えず目の前に主を置く。 (詩編16編8節)
目に見えない神を目の前に置くとは、意識して神を見ようとすることです。神は霊ですから、肉の目では見ることが出来ません。それでも五感を超えて、神の臨在に触れようと、ダビデは努めました。この聖句を、ペトロは「ダビデはイエスについてこう言っています」と述べて、引用しています(使徒2章25節)。祈りの中でダビデは、主イエスを見ていたのです。勿論、ダビデはイエスご自身も、その十字架と復活も知りません。千年も後のことだから。しかし、主イエスは永遠の神ですから、ダビデに現れ、語りかけることができました。だから、イエス在世から2千年後の私たちにも、同じように目の前に立って、語りかけてくださいます。それも高い天からではなく、すぐ目の前に相対して語りかけてくださるのです。ここに、祈りが生まれます。互いに語り合う祈りです。ダビデが私たちに示しているのは、相対して語り合う祈りです。
折りある毎に、主イエスを目の前に置き、その臨在を覚えたいものです。そして、できれば習慣にしてしまいたい。朝起きた時や夜寝る前から始めれば、一日のいつでも、どんな所でも目には見えないとしても確かに臨在されているイエスに気づくことができます。その時、「御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる」のです。そして、心は楽しみ、舌は喜び讃え、体も希望のうちに生きるようにされるのです(使徒2章26,28節)。それが聖書の約束です。そのような喜びが湧き出る祈りを、今まで私はしてきただろうか。とかく、目に見える世の中のことや、あの人やこの人のことに左右されて、神を見失っていたのではなかったかと反省しています。そして、「むなしいものを見ないよう、私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください」(詩編119編37節)と、主に祈り求めます。
主イエスの地上におけるご生涯は、絶えず父神を目の前に置き、相対しておられました。そして、弱く愚かな私たちを、限りない憐れみと慈しみに満ちた優しい眼差しで見つめ、常に執り成していて下さいます。その祈りにどうして応えないでいられましょうか。主の眼差しを絶えず覚え、目の前に主を置き続けたいと願います。それがダビデから学んだ祈りの姿勢です。
