イエス・キリスト⑵:「ゲッセマネと十字架上の祈り」

 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」    (マタイ26章39節)

 イエスは残虐な十字架刑を恐れる余り、こう祈られたのではありません。十字架の死という杯は、罪人としての死を私たちに代わって受けられることで、罪の無いお方が罪人とされて死ぬことです。それが如何に過酷な使命であったか、私たちの理解を超えます。極度の恐怖によって血の混じった汗を流して祈られるイエスさまは、罪と死の源である悪魔サタンとの壮絶な闘いをしておられました。そして、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と弟子たちに祈りによる援護を求められたのです。それがゲッセマネの祈りです。その祈りの中で、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。私たちはまずこのようには祈れません。自分の思いを通したいからです。何とかして自分の思い通りにしたいからです。しかしその思いよりも、神の御心を優先する祈りをされたのです。。上記聖句下線部の、しかし…と祈れるかどうか。自分の正しさや願いに固執するのをやめ、神の御心という、もっと大きな視点に立って祈りたいものです。

イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」   (ルカ23章34節

十字架の苦しい息を吐きながら、最初に祈られたのが、この祈りです。自分を十字架にかけた者らを呪うのではなく、赦しを祈られました。自分で何をしているのか知らないのが罪人です。私も、その罪人の一人です。イエスは今も同じ執り成しを、私たちのために祈られています。「私の身代わりの死をもって、この者たちの罪をすべて赦してください」との祈りが、耳元に響きます。その十字架の死は、私たち人間の恐るべき罪と、それをも贖い救う神の愛を示しています。そこにイエスの祈りが貫かれています。主イエスにとって祈りは、ひと時も欠かせない呼吸と同じでした。祈りなくしては何事もできないことを、主は知っておられたのです。そうならば、私たちには更にそうであるはずなのに、何と祈りの少ない事でしょうか。