2026年1月4日
主日礼拝

古い自分の死のために私たちは何もする必要がありません。ただそのことを信じるとき罪の支配が終わったと知ります。もちろん自分を見ると相変わらず惨めです。悪魔がやってきて、あなたは死んでいない、キリストはあなたのうちに生きていないと囁(ささや)くでしょう。そのとき私たちは必ず神の言葉を取り、自分の経験は偽りであることを宣言しなければなりません。そうすれば悪魔は逃げ去るでしょう。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(ローマの信徒への手紙6章11節)大切なのは、私たちが感じていること、考えていることではなく、神の言葉です。私たちはなぜ古い自分が死んでいると知るのでしょう。それは私たちがそう感じたからではなく、聖書にそう書いてあるからです。(中山C)

創世記3章1~9節:食べたら必ず死ぬ、と言われた善悪を知る木の実をアダムとエバは食べてしまいます。すると目が開け、裸の恥に気づきます。そして、神の前から隠れます。神との断絶が起きます。もう以前のように、神の前に裸で出られません。神は2人と裸の付き合い、交わりができません。それが神に対して死ぬことです。放蕩息子が帰って来た時、父親は「この息子は死んでいたのに生き返り…」と言いました。死んでいた=交わりが断絶した。実際に死んでいたのではありません。神は私たちと交わりを持ちたいのです。断絶を生むのは罪です。だから、神が「あなたはどこにいるのか」と問われたなら、「はい主よ、十字架の許にひざまずいています」と答えたい。主の十字架によって罪が取り除かれ、神との生きた交わりが復活するからです。          (浜田)       

礼拝讃美歌127番:十字架の上に 我は仰ぐ わがため悩める 神の御子を 妙にも尊き 神の愛よ 底方も知られぬ 人の罪よ。                                

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2026-01-04 中山兄、浜田兄(10:00))