2026年3月22日
主日礼拝

ヨハネ3章12-15節:モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 青銅の蛇を旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれても、それを見上げれば命を得る。主イエスはこの蛇をご自分の事とされた。蛇を「上げる」とは、①十字架にかけられる②栄光を受けるの意味があります。何を見るかです。自分を見ても何の役にも立ちません。人を見れば比較し、心が落ち着きません。イエス・キリストを見ること。それは、自分に頼るのをやめて、十字架を仰ぐことです。(祈り)父なる神さま、あなたが荒れ野で青銅の蛇を掲げ、人々を救われたように、あなたはイエス・キリストを十字架に上げ、私たちに救いの道を開いて下さいました。自分の力ではどうにもならない弱さを覚える時、あなたを見上げる信仰を与えて下さい。  (浜田)

ローマの信徒への手紙7章の比喩では、夫は律法、女はわたしたち、他の男はキリストです。もし夫が死ねば女は夫から解放され、他の男と一緒になれます。同様に、もし律法がなくなればわたしたちは律法の告発から解放され、キリストのものとなれます。しかし律法はなくなりません。律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しいとあるように、神の正しい要求はこの世界が続く限り永遠に存在し続けるのです。そこで、比喩の中ではあり得ない方法ですが、女のほうが死に、他の人のものとなりました。キリストが十字架で死なれたときに、わたしたちもキリストと共に死に、律法の適用範囲の外に出たのです。これが律法からの解放です。これは二千年前に達成されたことで、これから追求することではありません。今すでにそうなっているということです。 (中山C)

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2026-03-22 浜田兄、中山兄(13:30))