彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。 (イザヤ2章4節)

 これはニューヨーク国連本部に掲げられている聖句です。恒久的な平和は、人々の切なる願いであり祈りです。しかし、現実はそれとは程遠く、戦争は絶えません。なぜ、悲惨で愚かな戦争なのに、繰り返えされるのでしょうか。戦争は旧約聖書の中心的な主題ですが、どう理解したら良いのかと悩まされます。

旧約聖書のヨシュア記は、神が約束した地に侵入しそこに住むカナン人を滅ぼす戦いの書です。ヨシュアは信仰によって、次々と敵を打ち倒します。聖書が描く戦いは、宗教的な行為として描かれています。エリコの城壁が一気に崩れるのは、神の働きです。しかし、次の聖句をどのように理解したら良いのでしょうか。
彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。     (ヨシュア記6章21節)
彼らとはヨシュアに率いられたイスラエル軍です。情け容赦なくエリコの人々や家畜を、ことごとく剣にかけています。皆殺しです。このような残虐なことを神の民はしたのです。新改訳聖書は、「聖絶」と言う造語を用いています。敵を殺害するのは、神に献げる行為になります。そして、キリスト者には霊的解釈が働き、信仰によって得られる勝利として理解します。だから、残虐な行為とは受け取れないし、受け取らないのです。私もそのように読んできました。それよりも、皆殺しは考古学的には証明できない出来事だと言われる点に悩まされました。つまり、ヨシュア記が記すエリコとアイの町の征服による聖絶は、実際には起きていない、と言われるからです。ほっとする反面、聖書と戦争の関係を、もっと学びたいと願いました。それで、これから『聖書と戦争~旧約聖書における戦争の問題~』(クレイギ著)を下敷きにしながら、ご一緒に考えて行きたいと思います。11年前、イスラエルの研修旅行で、エリコの町に行きました。その時、ガイドから上記のような事実を聞かされました。いずれにしろ、旧約聖書が戦争の記事で満ちているのは事実です。私たちはそこをどのように読むべきでしょうか。