ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。 (創世記37章23,24節)
ヨセフは兄たちが自分を殺そうとしているとはつゆ知らず、「兄さん」と駆け寄った。すると、いきなり兄たちはヨセフを捕らえ、水溜の穴に投げ込みます。自力では出られない穴です。この時、ヨセフはどうなったのか。20年後にも兄たちはこの時のことを鮮明に覚えていて、兄たちは互いに言った。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟(ヨセフのこと)が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった」(42章21節)と。穴の中から「助けて。ここから出して!」と泣き叫ぶ弟の声を耳にしながらも、兄たちは腰を下ろして食事を始めています。食べていたのは、ヨセフが持参した父からの差し入れでしょう。兄たちはこれまで溜まっていた胸のつっかえが取れる快さを覚えながらも、これからどうしよう、と漠然と思っていたに違いない。
ユダは兄弟たちに言った。「弟を殺して、その血を覆っても、何の役にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」 兄弟たちは、これを聞き入れた。 (創世記37章26-27節)
事がここまで進むと、ヨセフをこのまま父のもとに返すわけにはいかない、また告げ口をされる、と兄たちは考えました。折よく、隊商のイシュマエル人が通りかかった。売られるとは知らず、穴から引き上げられたヨセフは、助かったと思いました。ところが、エジプトへ下って行く隊商に銀20枚で売られたのです。奴隷の値段です。鎖に繋がれたヨセフの悲嘆さが推察できます。今度は叫び声を上げませんでしたが、呻き、嘆きました。上記の42章21節にあるようにヨセフは苦しみ、絶望のどん底に突き落とされたのです。17歳まで、甘やかされて育ったヨセフにとっては、余りにも辛く過酷な運命に思えたでしょう。ヨセフのことで思い出されるのは、北朝鮮に拉致(らち)された人々のことです。ヨセフと同じ年代でした。どんなに苦しんだことか。そして、子どもを奪われた親の心情は、横田夫妻が代弁されました。このような現実は、あってはならないのです。拉致被害者の家族は事件について、何も知らされていません。父ヤコブと同じく、ひたすら子らの帰りを待ち続けているのです。