2025年9月28日
主日礼拝

父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。(ヨハネの手紙一214節)
この初めから存在なさる方とは子なる神のことです(1章1節)。人は沢山のことを学びますが、次第に大切なのは知識ではなく命であること、何をするかではなく,どういう力でするかであることに気づきます。魂と霊の違い、人間の思いと主の道の違いを知ります。成長するとは衰えることであると知ります。そして最大の問題は、私達がどうなるかではなく、私達の働きでもなく、人類の行く末でもなく、主ご自身であるとわかってきます。主とはいったいどなたなのでしょうか。父たちは初めから存在なさる方を知っています。ここの「知る」は完全に知るという意味ではありません。しかし父たちは御子について何かを知っているのです。外なる人は衰えていくとしても、内なる人は日々新たにされ、群れに命が流れ、教会に命が溢れます。        (中山C)

出エジプト3章16節:モーセは、柴が燃えているのに燃え尽きない不思議な光景を見ます。柴は、イスラエルの象徴。しかし神が共にいるので、燃え尽きず滅びない。5節に「あなたの足の履物を脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」とあります。モーセが立っていたのは、教会でも礼拝堂でもない、日常の場所。しかし、どこであっても神と出会うなら聖なる場所です。そこで神は語りかけ、同胞の救いのために立ち上がるよう命じます。同じく日常の中で、神は語りかけてくださる。そこが聖なる場となることを覚えたい。黙示録4章8~11節:天上の光景は24人の長老(旧約と新約の聖徒の代表)は神の前にひれ伏し、自分たちの冠を投げ出しています。ほめられるべきは、神だけだからです。栄誉の冠、輝かしい業績と誇りも、このお方の前では、無に等しいからです。     (浜田)

 礼拝讃美歌23番:聖なる聖なる聖なるかな 三つにいまして一つなる 神の御名をば 朝まだき 起き出でこそ ほめまつれ♪

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2025-09-28 中山兄、浜田兄(10:00))