しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。 (Ⅰコリント14章3節・口語訳)

預言する者は人に語りて其の徳を建て、勧めをなし、慰安を与ふなり。異言を語る者は己の徳を建て、預言する者は教会の徳を建つ。  (同 14章3,4節・文語訳) 

私たちは、説教ではなく建徳と呼んでいます。どうして、そう呼ぶのでしょうか?冒頭の聖句が根拠です。講壇の上から説き教えるのではないからです。そこで語られる預言は、予言ではなく神の言葉を預かることです。聖書から預かった言葉を語ります。その目的は、聞く人の徳を高め(建て)励まし、慰めるためです。それによって集会(教会)の徳が建てられるからです。現今の聖書(新共同訳、新改訳)には「徳」の字が見られません。原語に無いからでしょう。人を造り上げ(新共同訳)、人を育てる(新改訳)と訳されています。ここは、異言と預言を対比した文脈ですが、徳という事が必要とされている昨今ゆえ、どうしたら人の徳が建つのかを考えます。

私たちの魂は、いつでも霊的に眠り込む傾向を持っています。だから、神は聖書の御言葉をもって魂を刺激し目覚めさせ、自分の罪に気づかせます。それが、イエス・キリストの福音です。福音以上に人を建て、励まし、慰めることができるものはないからです。

前述の預言には3つの働きがあります。①人の徳を育て②我に返らせ(自分の罪を自覚させ)③慰める(それでも愛され、祝福されている)働きです。もう少し厳密に言えば、「徳」と言うより「信仰」が建てられることです。信仰が建てられると、自ずと徳が高められるからです。しかし現実には、そのような建徳を誰が語れるでしょうか。人間を超えた聖霊の働きと助けが無かったら、到底及ばないでしょう。では聖霊は、どのように私たちに働きかけるのでしょうか。
燃える火のように(使徒2章3節)、腹の底から流れ出る水のように(ヨハネ7章38節)、思いのままに吹く風のように(ヨハネ3章8節)、自由自在に働かれます。私たちが自分の思い通りにコントロールできる御方ではありません。むしろ逆です。聖霊の自由な働きに、私たちの主導権を明け渡すことです。自分の思いを捨て、御心のままにと一切お委ねすることです。
言うのは簡単ですが、実際、そのように委ねて建徳が語られるとき、聞く人の徳が建てられるのでしょう。