2024年6月16日
主日礼拝
《建徳要旨》
①マタイ12章43~45節:私たちの心は、霊や思いが入った容器です。清い霊だけでなく、汚れた霊や思いが侵入します。主イエスは、「汚れた霊が出て行き、心を掃除し、きれいに整えても、住人のいない空き家にするなら以前よりも悪くなる」と言われました。自然は真空を嫌い、空き家のままだとすぐに汚れた霊が入り込みます。
この箇所の時代背景として知っておきたいのは、洗礼者ヨハネが悔い改めを説き、人々の心を掃除し、整えたのは、後に来る主イエスを迎え入れさせるためでした。ところが、彼らはそれを拒みました。その結果、イスラエルは汚れた霊に支配され、AD70年に滅びました。熱心に律法を守り、自らを清く保っていたはずのファリサイ派の宗教指導者らは、イエスを主として迎え入れませんでした。その結果、この例えのようになったのです。
主イエスを心に迎える人は幸いです。内側に宿るものによって、私たちの生活は導かれて行くからです。悔い改めることは、心を掃除し整えることですが、そこに、イエス様を主人として迎え入れることが必要です。
黙示録3章20節:「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。誰かわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
汚れた霊や思いは、私たちの心に勝手に入り込んで来ます。一度追い払っても再び侵入しようとします。もし心の中が主イエスを迎えていない空き家なら、もっと悪い7つの霊が入り込み、住み着きます。他人事ではありません。今の世界はキリストを戸の外に立たせたまま放置しているので、この時代の者たちと共に悪くなり、悪霊に支配された状態になっています。悔い改めて、キリストを主として迎え入れたい。汚れた霊や思いは誰の心にもあるものだから。 (浜田)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2024-6-23 浜田兄)