2024年6月9日
主日礼拝

《建徳要旨》
Ⅱコリント122節:わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っています…、という「一人の人」とは、パウロ自身のこと。使徒にとり、主の幻や啓示を与えられることは「強さ」だ。コリントの教会では偽使徒が自分の「強さ」を自慢していた。パウロは自分を「一人の人」と表現し、敢えて「強さ」を誇らなかった。後半はパウロに「棘」が与えられた。これは「弱さ」だ。彼の祈りに、主は、恵みは十分だと答えられ、「弱さ」を誇ることを教えられた。でも、この「誇る」は自慢することではない。名誉に思うこと。彼は自分のような弱い者のために主が十字架に架かり給うたことを名誉に感じた。同じ思いをした人がいる。礼拝讃美歌129の作詞者F.J.Crosbyだ。彼女は医療過誤で生後すぐ全盲になった。でも、こんな弱い者すら救い給うた主の十字架を名誉なことと示されたのだ。        (人見)

ガラテヤ6章14節:このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架の外に、誇るものが決してありません。なぜ、そう言えるのでしょうか。それは、私たちが主の十字架によって救われたからです。その十字架は、イエス・キリストだけのものではなく、私のものでもあるのです。十字架は私たちのためになされた主の偉大な御業であると同時に、私たちが歩むべき道だからです。私たちに求められるのはイエス・キリストと共に死に、共に葬られ、共によみがえらされることです。つまり、イエス様と一つになることです。たとえ現実には、堅い自我があり、主に頼らず、十字架を誇れない私がいるとしてもです。そんな者でも、礼拝に出て主の十字架を覚える時、わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤ2章19、20節)と、言えます。そして、キリストの愛に満たされた自分を見い出すのです。    (浜田)

 

 先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2024-6-9 人見兄、浜田兄(25:30))