2024年5月12日
主日礼拝
《建徳要旨》
①Ⅰコリント12章11節:「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それ(㊟霊の賜物)を一人一人に分け与えてくださるのです」とパウロは言った。来週はペンテコステだ。「イエスは主である」と告白する者には、聖霊なる神が宿っていてくださるばかりか、恵みとして「聖霊の賜物」を与えてくださっているのだという。それはパウロの時代だけでなく、今も変わりはない。私たちにも相応しい力が恵みの賜物として与えられている。私たちはそれを活かして用いているだろうか。賜物を過小評価したり、出し惜しみしてはいないか。「私には何の取柄もない」というのは謙遜ぶっているだけ。主は与えられた賜物を、主のご用に用いることを望んでおられる。
銀行の社員研修で「私にできること」を列記し、それをどう仕事に役立たせられるかを、小グループで話し合ってもらったことがある。「自分にできることの多さ」を再確認でき、果たすべき役割が明確になった。
この集会でも、礼拝の奏楽や子ども食堂など、与えられた賜物を活かしておられる方々がおられる。でも、こんな小さなものは役に立つまい、と勝手に決めつけてはいないか。マタイ25章14節の「1タラントンを預けられた僕」は、理由はともかく、土中に埋めておいた。帰ってきた主人は「怠け者の悪い僕だ」と叱った。ヨハネ6章9節の「5つのパンと2匹の魚を持っていた少年」は、5,000人もの食事が賄えるかどうかなど、余計なことは考えずに、それを差し出した。すると、主はそれを用いて奇跡を起こしてくださった。持っていないものを無理して差し出す必要はない。小さな賜物で構わない。それを主の御前に差し出そう。そうすれば主は、大きくして用いてくださる。 (人見)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2024-5-12 人見兄)