2024年5月5日
主日礼拝
《建徳要旨》
①レビ11章44節:わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。
私は自らをかえりみて自分が罪人だと知っていますが、私の罪は、御子イエス様による贖いの御業を通して初めて義とされるほどに重いのだ、とは今までどうしても思えませんでした。しかし最近、聖書から、私は聖なる者だと言われる主様の人間に対するご要求は「生活のすべての面で聖なる完全な者となれ」(1ペトロ1:15、16。マタイ5:48)であると知らされて、そのように生きられない私の罪深さと、それに気付かない傲慢さを思い知らされました。私に対する主様の愛を悟らされて、感謝し主様を賛美しました。(北原)
②ルカ12章15~21節:この譬話は愚かな金持ちと呼ばれ自分の畑が豊作で、穀物を全部入れるために倉を壊してもっと大きいのを建て、全部しまい込んだ。余った穀物を貧しい人に分けたり、感謝して神に献げることもしていない。自分の事しか考えていない。だから、倉や作物の前に「私の」が付けられている。確かに彼が働いて収穫したから、彼のものです。自分の命も自分のものか?いいえ、そうではありません。命は神のものです。本当は、神の恵みがあったからなのです。そして、食べ物や財産があれば、命も保証されると考えた。だから神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と言われた。このような愚かさは、誰にもある。申命記8章に「あなたは『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力を、あなたに与えられたのは主である」とある。
譬話と同じ愚かさを、私もしている。人と分け合わないで、自分だけのものにしている。食べ物やお金が十分にあれば、命も保証されると思い違いしている。命は神のものです。命は神に由来するものだからです。北原白秋はそれを不思議、と歌いました。薔薇ノ木に 薔薇ノ花咲く 何事ニ不思議ナケレド、と。いのちの不思議さは、神から来るものだからです。 (浜田)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2024-5-5 北原兄、浜田兄(10:00))