2024年3月31日
主日礼拝

《建徳要旨》
ヨハネ11章23~27節:イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。」
死は別れであり、悲しみの涙です。そして、葬られる墓は暗い。しかし、復活は朝の光です。生きている喜びが希望として輝いています。かつて、死に勝利して復活した人は、キリスト以外には一人もいない。復活とは、ただ死者が「生き返る」ということではなく、永遠に生きる命に変えられることです。それはキリストの十字架と復活によってもたらされます。キリストは私たちの罪のために死んで、葬られ、聖書に書いてあるとおりに三日目に復活されました。その福音は、最も大切な事として語り伝えられています。そこに示されているのは、愛です。十字架の愛=ご自分の命を、私の罪のために捨てる程の愛です。復活も愛=命を惜しみなく与える愛だからです。復活されたキリストは今も生きておられ、私たちはこの主と出会い、変えられ続けます。     (浜田)

②ヨハネ20章11~17節:マグダラのマリアは、墓の前で泣いていた。十字架での処刑を見せられた上、香油を塗る遺体も無くなっていた。これほどの悲しみはない。しかし主は復活されて、マリアの後ろに立っておられた。そして「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言われた。マリアは振り返って、イエスを見ている。しかし、それがイエスだとは分からなかったのは、何故か。婦人よ、との一般的な呼びかけだったから。肉のイエスの声ではなく、霊のイエスの声だったから、園丁と間違えた。しかし、イエスが「マリア」と自分の名を呼ぶのを聞いて、主だと気付き「ラボニ(先生)」と応えた。復活された主が最初に出会い、声をかけたのがマグダラのマリア。遺体まで無くなるという世界一の悲しみに落ち込んでいたが、今や最も大きな喜びに輝いているマリア。それはどん底の悲しみと苦しみを味わってきたマリアへの、主イエスからの憐れみと恵みだったのです。 (百瀬)

 先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2024-3-31 浜田兄、百瀬兄 (20:20))