2024年3月3日
主日礼拝

《建徳要旨》
学徒兵の遺稿集『きけわだつみの声』より、フィリピンのルソン島で戦死した、21歳の青年の手紙を紹介します。「…生死の境を彷徨していると、学生の頃から、無神論者であった自分が、今更のように悔やまれます。死後どうなるのだろうか。その点、信仰の篤かったご両親様の気持ちが分かるような気がします。何か宗教の本をお送り願えれば幸甚です。(後略)」この手紙を受け取ったご両親の心境を考えてみたい。創世記22章1~13節を読みます。アブラハムが、神から愛する独り子イサクを献げるよう命じられます。7節:イサクの言葉が胸に迫ります。次に、出エジプト1章22-2章10節を開きます。この2つの話から、Ⅰコリント10章13節の御言葉が示されます。神は既に雄羊を、ファラオの王女を用意しておられました。
では、学徒兵のご両親に用意された道は何でしょうか。マルコ9章40,41節:必ずその報いを受けるとあり、それはご子息が必ず御国に入れるということです。 (百瀬)

Ⅰペトロ1章17~19節:人をそれぞれの行いに応じて、公平に裁かれる方を、父と呼び、畏れる生活。父なる神は厳格過ぎもせず、甘やかし過ぎでもなく、公平です。愛があるからです。その父としての愛が納得させ、人を変えるのです。その例を2つ。1,盗癖のある息子に対する父の厳然とした態度と涙。2,同志社の創立者新島襄が校則を破った生徒らを前に、その責任はすべて教師である自分にあると話し、右手に持っていた杖で自らの左手を激しく打った事件。ここに、イエス・キリストの贖いを垣間見ます。贖いはキリストの尊い血による、とある。ペトロはその手紙で、父なる神を畏れ敬う生き方=聖なる生活を命じています。それが愛、偽りのない兄弟愛に行き着きます。では、私たちは父なる神を呼ぶ時、どんな思いで「父よ」と語りかけているでしょうか。アバとはアラム語で、「パパ」と幼児が 呼ぶ言い方です。その言葉には畏れと親しさが、その胸に去来しているのです。         (浜田)

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2024-3-3 百瀬兄、浜田兄 (22:30))