2023年12月31日
主日礼拝
《建徳要旨》
①イザ40章3節:「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と主なる神が「呼びかける声」をイザヤは聴いた。
さて、この声は誰に対して呼びかけられた声なのか。それはイエスさまだ、とバプテスマのヨハネは証言している(マタ3:3)。その声は、捕囚民たちがバビロンから故郷エルサレムに帰る道を平らにせよというもの。これは救いの道を象徴しているのではないか。救われるために障害となる罪を取り除けと命じられたのだ。そうすれば、十字架の犯罪人のように、今日、瞬時に救われるのだ。エジプトからの脱出のような40年もの歳月はイエスさまの十字架によって、まったく必要ではなくなった。しかも、その道はエルサレムに向かって、一歩でも踏み出しさえすれば良い広い道なのだ。 (人見)
②ヘブライ9章22節:血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。
今日は一年最後の日です。汚れを落とし清めて新しい年を迎えるため、年末に大掃除をします。わが国では大晦日に、煩悩の数だけ除夜の鐘をつく慣習があります。煩悩とは貪欲・怒り・嫉妬などで、聖書でいう罪と同じですが、罪を表面に付いた埃(ほこり)より深く、鉄のペンで刻み込まれたものと聖書は記します。上記聖句に、罪の赦しと清めには血が流される(身代わりに死ぬ)ことなしにはあり得ないからです。血生臭いと思いがちですが、神が血を与えられたのは、祭壇の上で命の贖いをするためです(レビ17:11)。それを踏まえて、主イエスは最後の晩餐でパンを2つに裂き、杯を手にして「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるために流されたわたしの契約の血です」と、語られたのです。 大晦日には礼拝で、主の十字架の死による罪の贖い=罪の完全な赦しを受けることが、最も重要で必要なことなのです。 (浜田)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2023-12-31 人見兄、浜田兄(31:50))