2023年11月26日
主日礼拝
《建徳要旨》
①マタイ27章1~5節:「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
これは、イエスを裏切ったユダの言葉。主の上に十字架刑の判決が下った時、ユダは我に返り、自分の罪はもう赦されないと思い、自殺に至った。死んで罪を償おうとした。しかし、それは主の願いに反するものでした。なぜなら、「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。…わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と、神は言われるからです(エゼキエル18章23,32節)。ユダはどうすべきだったでしょうか。主の許に立ち帰る道、裸になりプライドを捨てて、悔い改める道を選ぶこと。そうしないなら、世の悲しみに支配され死に至ります(Ⅱコリント7章10節)。どんな悪人であっても生きること、悔い改めて生きることを神は願われる。そこに、悔い改めたペトロと後悔し自殺したユダの違いがあります。 (浜田)
②都が見えたトキ、イエスはその都のために泣いて(ルカ19章41節)、イエスは涙を流された(ヨハネ11章35節):主が泣かれ、涙を流されたことを記す聖句。先日、ノーベル賞受賞の医学者山中伸弥氏と、日本ラグビー界を牽引して故平尾誠二氏との「友情」TVドラマで、余命2,3ケ月のガン宣告を受けた親友のためにむせび泣く山中医師の姿に感動し、思わされたこと。ルカで主が「泣かれた」(クライオー:激しく泣く)のは、受難が迫るエルサレムへの途上で都が見えた時、神の訪れである御子の救いと平和への道を拒み、滅亡する神の都のために泣かれた神の悲しみが(すべての人の問題として)示される。ヨハネでは愛するラザロの死を姉妹たちと共に悲しみ悼む人となられた主イエスが「涙を流された」(ダクリューオー:ここだけの特有な語)と記し、死に対し無力で弱い私たち人間の個人的な苦悩や悲嘆を共有してくださる主の親身な愛を、この最も短い節の特別な語を用いて表す意図を示されて、感謝し胸が熱くなった。 (柴川)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2023-11-26 浜田兄、柴川姉(19:44))