2023年11月19日
主日礼拝

《建徳要旨》
①Iコリ15章25:キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
神の国を信じるとは、キリストが再び来られること、体のよみがえり、終わりの日の審判、そして死も苦しみもない新しい天と新しい地の創造を信じることだと思うのです(使徒信条、Ⅰコリント15章23~24節)。
イエス・キリストを信じる者は、いのちの書に名前が書かれていて、永遠のいのちと素晴らしい未来が与えられているのですから、目の前の一見小さなことに思えることでもそれは神の国を建て上げるわざのどこかの一部を担っているのだと信じて、今を精一杯生きようではありませんか。苦労は決して無駄にはならないのですから。(Ⅰコリント15章58節)

キリスト教信仰とは、救いまででおしまいなのではなく、体のよみがえりと永遠のいのちという未来への希望を握って、毎日を喜んで、精一杯生きていくことだと思うのです。               (小林)

②マタイ26章17~25節:「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と主イエスはユダに言われた。生まれなかった方が良かった、との言葉を、どう受け止めれば良いのか悩んだ。口にしてはならない酷い言葉だからです。しかし、26章50節では、裏切るユダに「友よ」と呼びかけています。主イエスは自分を裏切ったユダをも尊び愛されたのです。しかし、ユダは最後の最後まで主の心を理解しなかった。主はそんなユダを呪ったのではなく、不幸だ(哀れだ)と腸(はらわた)がちぎれる思いで憐れんだのです。悪魔に魂を奪われたユダであっても、再びご自分の許に戻ってくることを願う故に、敢えて厳しい言葉を語られたのだと分かりました。裏切者はユダだと皆には分からせない配慮もして、「先生、まさかわたしのことでは」と、白々しく皆と同じ言葉を口にするユダに、「いや、あなただ」とは名指しせず、「それはあなたの言ったことだ」と応えています。ユダをも愛する切ないまでの神の愛に、心動かされました。  (浜田)

    先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2023-11-19 小林兄、浜田兄(14:50))