2023年10月29日
主日礼拝

(中野集会 & 聖書講習会@名古屋)

《建徳要旨》

①ヨハ15章12節:「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」という今年の聖書講習会の主題聖句は、サンドイッチのように「互いに愛し合いなさい」という言葉が、「わたしがあなたがたを愛したように」と「これがわたしの掟である」という2つの言葉に挟まれています。愛し合うというのは誰でも言える言葉です。でも、「主が私たちを愛してくださったように」となると話は別です。主は私の罪の身代わりとなって十字架でその尊い御命をささげてくださいました。主のように愛し合うことは到底、無理です。主の愛がどれほど大きいかを実感しますが、そのとおりやれと言われてもできるものではありません。チョット値切って、ほどほどに愛し合えばいいのか、NO!です。しかも追い打ちをかけるように、これは主の掟だと言われるのですから、たまったものではありません。どうすればいいのでしょうか。この少し前の、ヨハネ13章34節に解決策がありました!主が言われた掟は律法ではなかったのです。「新しい掟」なのです。その「新しい掟」を守るための「新しい手立て」も示してくださいました。それが「いつも主に繋がっていること」です。そこで、「ぶどうの木のたとえ話」が語られるのです。「まことのぶどうの木」である主にいつも繋がってさえいれば、「枝」である私たちは主から「互いに愛し合う」ための愛をいただけるというのです。では、主と繋がるにはどうすればいいのでしょう。 それは祈りです。祈りは主と交わる唯一の手立てです。主を礼拝するとき、聖句を読むのも大切だし、賛美するのも素晴らしいことです。でも、祈りによって私たちは主と繋がることができ、「互いに愛し合う」ための愛をいただくことができるのではないかと思います。    (人見)

この録音は先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2023-10-29 人見兄)


名古屋で行われた聖書講習会での主日礼拝

使徒2章25節:『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。』 (北原)

ローマ5章6~8節:実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 (浜田)

    この録音は先週,聖書講習会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2023-10-29 北原兄、浜田兄(21:25))