2023年10月1日
主日礼拝
《建徳要旨》
①旅立ちについて:聖書にはいくつか旅立ちについて書かれている。有名なのは、アブラハム(創世記12章)、モーセ(出エジプト記12章)などである。新約聖書では放蕩息子(ルカ15章)の冒頭部分をあげたい。これらの旅立ちは,旧約の方は直接神様からの啓示を受けて始まっている。しかしアブラハムはかなり曖昧な約束しか与えられていない。具体的な証拠もなく、ただ信仰によって彼は動いた。その結果、彼は多くの民族の父と呼ばれている。モーセの場合は、それまでに起こった様々な災厄を通し、かなり強い啓示を与えられた。だから、神の指示に疑問を持つことなく従うことが出来た。その結果、イスラエルの国が確立されることになった。ところが、放蕩息子の場合は、そのような啓示はなかった。ただ人の心の赴くまま動いた。しかし最後には、父のもとに帰ってきた。自分自身も、自分で啓示を受けたと思ったことはなかったが、後で振り返ってみると、あちこちに神が働いていたと思わされている。 (小山)
②ローマ5章1節:「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いる、とパウロは言った。先日の敬老感謝会を機に、ほぼ60年にもなる信仰生活を振り返ってみた。はたして私は何をしてきたのか。そんなときに与えられたのがこの聖句だった。神から正しい者と認められるのは律法を守ろうと努力したかどうかではない、神が一方的に義と認めてくださったのだと彼は言う。しかも、神を無視して生きる、神との敵対関係にあったときからだ。そのおかげで神との平和をいただいた。これは神からの一方的な和解だ。そのことをパウロはロマ8:31で、神が私たちの味方になってくださったのだと言った。神の一方的な和解宣言こそが恵みそのものなのだ。その恵みを喜び、神を誇りとし、すべてを神にゆだね、常に希望をいだいて生きる者、それが信仰に生きる者の生き方だと教えられた。 (人見)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2023-10-01 小山兄、人見兄(20:20))