2023年3月26日
主日礼拝
《建徳要旨》
①主の祈りを生きる(マタイ福音書とルカ福音書との比較)
マタイ6章12節:わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。それに対して、
ルカ11章4節:わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。出来ないかも知れませんが、赦すよう努力します。こちらの方が私たちの現実には合っていますが、殆どの教会で祈られる主の祈りは、マタイ版の方です。だから、ここを祈る時、口ごもりがちになります。しか、し赦したのは私ではなく,主イエスなのです。「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エフェソ4章32節)とある通りです。自分の罪=負い目(借金)がどれほど莫大であっても、皆、赦されたのは神の憐れみによってです。マタイ18章23~35節の例え話。王(神)に対する家来(私たち)の負債は1万タラントン(千兆円以上)でした。とても返済できる額ではありません。それを皆赦されたのは、ひとえに王の憐れみによってです。借金は全部帳消しにされました。その彼は仲間に百デナリオン(百万円)を貸していました。彼は仲間が返済できないのを怒り、牢に入れてしまいます。自分の莫大な借金は全部赦されているのにです。私たちの罪(負い目)は驚くべき額であったのに、キリストの贖いによって全部赦され、帳消しにされたのにです。八木重吉の詩に「赦され難い私が赦されている。私はだれをも無条件でゆるさねばならぬ。」があります。ゆるされるはずもない私が、神にゆるされているとの自覚。主イエスが十字架の苦しみの時、最初に口にされたのが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)でした。恐るべき罪の代価1万タラントンを代わりに支払われたのが、キリストの十字架です。今、かつての自分の言動で、父や母に対して返し得ない程の負債を覚え、悔い改めます。 (K・H)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2023-03-26 K・H兄)