2023年2月12日
主日礼拝

《建徳要旨》

ルカ249節:「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 

これが聖書に初めて記された、人となられたイエスさまの言葉です。神殿でイエスさまを見つけたマリアに言われたのです。ところが、マリアにはこの言葉の意味が解りませんでした。だって、「父の家」と言っても、イエスさまの父はヨセフだし、その家はナザレにあると思っていたからです。しかし、マリアはその意味を問い返さず、「心に納めて」いました。彼女は受胎告知を受けたときも同様に、「心に納めて」いました。これがマリアの素晴らしいところです。

最近の精神医学や心理学で「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉が注目されているそうです。日本語の適訳はまだありませんが、答えの出ないことに耐える力のことです。私たちはとかく答えを求めようとします。でも、答えの見つからないことは多いのです。そんなとき、「心に納めて」おく力です。イエスさまが仰った「父」とは父なる神さまのことです。それはイエスさま御自身が、自分は神の子だと宣言されたことを意味します。イエスさまは私たちが信じようと信じまいと神さまなのです。また、「家」という単語は原典にはないそうです。イエスさまは場所のことを言われたのではありません。これは「務め」と訳すのが適訳のようです。イエスさまは単に「神殿にいるのに」と言われたのではなく、「神さまに委ねられた務めを果たしているのに」と仰ったのです。その「務め」とは、両親を助けて、真の人として生きることだし、その究極の務めは十字架に架かってすべての人の身代わりとなることでした。マリアはイエスさまの十字架の日、そのそばに佇んでいました。ようやくこの言葉の意味が解ったからではないでしょうか。     (N.H)

  先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2023-02-12 N・H兄)