2022年10月16日
主日礼拝
《建徳要旨》
①マルコ14章61,62節:「お前はほむべき方の子、メシアなのか」…イエスは言われた。「そうです。」
最高法院の裁判で尋問した大祭司に対し、主は沈黙を破って肯定された。先週、TPCでの礼拝メッセージ(Ⅱコリント1:19,20よりH兄担当)に感動した余韻から、冒頭の聖句を示されました。祭司長、長老、律法学者たち全議会が主を死刑にするため主に不利な証書を求めたが得られず、最後に大祭司が立ち上がり直接主から有罪になる言葉を得ようとしました。主は彼の意図を御存知の上で、神の子メシアであると肯定され、ダニエルの預言(7:13,14)を引用し、来るべき再臨のキリストでもあることを示されました。神を冒涜する罪で死刑判決をお受けになった主の肯定は神の人類救済の御計画、約束が実現される然りとなったのです。主の救いはすべての人に及び、世で価値なき弱者とされる者・病に苦しむ者・悩み悲しむ者の存在そのものを肯定し、光と希望を与えられます。 (E・S)
②ルカ15章1~7節:聖書は私たち人間を羊に例えています。羊が一番、人間に似ているからです。羊は倒れると自分では起き上がれず、群れからはぐれると自力では戻っては来れません。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った」(イザヤ53章6節)。だから、羊飼いが必要。良き羊飼いである主イエスに導かれることが必要です。良い羊飼いは羊のために自分の命を捨てると聖書にありますが、実際の羊飼いは羊のために命を捨てたりはしないもの。それが現実。しかし、私たち罪人のために良き羊飼いである主イエスは命を捨てられた。その愛と憐みは歌にも余るもの。更に、自分が主イエス様の肩に背負われて運ばれ、喜ばれているのを実感できるなら、何と幸いでしょうか。それでも、私たちは羊のように迷います、だから、詩119編176節の祈り、「わたしが小羊のように失われ、迷うとき、どうかあなたのしもべを探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません」が、記されているのです。 (K・H)
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2022-10-16 E・S姉、K・H兄(14:40))