2022年7月24日
主日礼拝
《建徳要旨》
①創世記3章9節:主なる神はアダムを呼ばれた。「あなたはどこにいるのか」。蛇である悪魔の誘惑に屈し、神が禁じた木の実を食べたアダムとエバ。目が開いて気付いたのは裸の姿でした。それで2人は神の顔を避けて、木の間に身を隠したのです。そこで神は、「どこにいるのか」と問いかけます。何をしたのか、ではない。立ち位置を尋ね、神の前に裸のままで出て来ないことへの問いかけです。罪を犯す時、神は「何をしたのか」よりも「どこにいるのか」と問います。2人は、私が罪を犯しました、お許しください、と平伏すのではなく、人に責任転嫁して返答します。しかし神は幼子のように裸のまま出て来ることを願っていたのです。「あなたはどこにいるのか」と問われたら、「主よ、あなたの十字架の下に平伏しております」(坂田祐)と答えたい。主イエスの十字架の下に平伏す以外にないのが、私たち罪人だからです。 (K・H)
②サムエル下19章31節:メフィボシェトは「主君、王が無事に王宮にお帰りになったのですから、すべてツィバのものとなっても構いません」。父ダビデ王に反逆したアブサロムの死によって反乱が収まり、エルサレムに帰還したダビデを迎えに出たメフィボシェト(初代王サウルの孫)が逆境にありながら唯々、王の無事を喜びました。両足が萎えていた彼はサウル王家で唯一人生き残り、父ヨナタンのために、ダビデから大きな恵みを受け、王の食卓で王子の一人のように食事をする栄誉(それは主の食卓に交わる恵みのように)と、サウル家の全所有地を与えらえたのです。ところが、後に僕ツィバの裏切りと中傷により、王の怒りに触れ、全てを失いました。その失意の中で、王のために祈り続けたメフィボシェトにとって欺きと誤解からの身の潔白より、恩愛を受けた王だけがすべてだったのです。「キリストがすべて」(コロサイ3章11節) (E・S)
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2022-07-24 K・H兄、E・S姉(20:24))