2022年7月10日
主日礼拝

《建徳要旨》

マルコ728節:食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。922節:おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。
ここに二組の親子がいます。どちらも子の病を治してと願っています。母親は必死です。土下座してイエスさまの足許にすがりついています。「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われても、引き下がりません。頭の中は子のことでいっぱい。自己中心もいい所です。それに引き換え父親は淡泊です。大人の対応かも知れませんが、治るかどうかもイエスさまの御心次第と丸投げしているようで、どこか他人事のようです。
さて、あなたの信仰は母親のようですか、それとも父親似ですか? いや、バランスが大事?もちろん、そのとおりです。でも、「なまぬるいので、吐き出そう」(黙示3:16)と言われないように。    (N.H)

列王記下5章1~14節アラムの軍司令官ナアマンは捕虜として連れてきた少女から、サマリアの預言者の所に行くように言われる。ナアマンは多くの金銀を持ってイスラエルの王の所に行くが、王は悲しみを示すものの、治すことはできないと考える。それを知った預言者エリシャが治す方法を教えた。怒ったナアマンは帰ろうとするが、部下の進言により、エリシャの言う通りにして癒された。病気が治ることについて、神の民であるユダヤ人は信じないが、異邦人であるナアマンは信じる。信仰の逆転現象が起きている。これは神から私たちに示される「自由」でもある。ルカ4章27節に、清くされた者としてナアマンが語られるが、神は単に癒し主以上で、イスラエルの救い主である。だから神は私たちに手を差し伸べてくださっている。その御手をしっかり掴んでいたい。 (E・k)

 先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2022-07-10 N・H兄、E・K兄(25:20))