2022年3月13日
主日礼拝

《建徳要旨》

創世記21章:1~21節『神は聞かれた』

約束された時期にイサクが生まれたとありますが、子を与えると言われてから、25年も経っています。何故、こんなに長い年月が必要なのか?人間的な力に頼らないためです。イシュマエルは自然(肉)的誕生、それに対しイサクは超自然(霊)的誕生(ガラテヤ4章21-31節)。6節:サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった」。サラの嬉しそうな顔が目に浮かびます。長く待っただけ、わが子を抱いた喜び・笑いは大きい。ここでの笑いと、17章17節、18章12,15節の不信仰の苦笑との違い。振り返ると、アブラハムの足取りは右に左に揺れ動き、幾度も失敗と恥を繰り返しています。それでも神は、アブラハムに対して常に変わらない真実を尽くされ、約束通りにされました。続く9~21節では、サラの側の明るい笑いに対してハガルの側の暗い涙、その明暗が描かれます。ハガル母子は追放され、砂漠で道に迷い、死にかけます。しかし神は、イシュマエルの弱々しい泣き声を聞かれ、天から母ハガルに呼びかけます。「ハガルよ、恐れることはない。神はあそこにいる子供の声を聞かれた」と。人から見捨てられ、外に追い出された2人。しかし神は、泣く声を聞かれ,その子と共におられた。ハガルに天から語りかけたその声は、14年前、女主人の許から逃げた時、泉のほとりで語りかけられたのと同じ主イエス様の御声。そのように神は、私たちの祈りの声だけではなく、辛く苦しい時の嘆きや叫び声も聞いておられる。神は既に聞かれたのです。そしてハガルの目を開かれ、すぐ傍に水のある井戸に気づかせます。2人は命の水に与り、救われます。そこには自らも人から見捨てられ、宿営の外に追い出された主イエスが共に居られたのです。私たちに対しても主は、苦しみの中で目を開き、救いの井戸となられるのです。    (K・H)

 

先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2022-03-13 K・H兄)