2021年9月26日
主日礼拝

《建徳要旨》創世記50章15~21節:「ヨセフの夢」

ヨセフの物語は、まさかの連続です。兄たちによる人身売買、女主人からの誘惑と冤罪、ファラオの高官がヨセフの恩を忘れられたこと、言い換えると、全部あってはならない事です。反対に善い意味では、奴隷で囚人の身分から総理大臣にまで引き上げられた事。22年ぶりに父と再会し、涙の抱擁をした事。感動的な出来事です。そうした両極端を見る事ができます。北朝鮮による拉致という犯罪と、何十年にも及ぶ別れと涙の再会をどれだけ待ち焦がれていることでしょう。

創世記50章15~21節:ヨセフは兄たちと22年ぶりに再会し、自分が弟のヨセフであることを打ち明けたことを45章で読みました。ヨセフは兄たちを既に赦していました。恨んでいませんし、仕返しなど考えてもいませんでした。それは普通には有り得ないことです。だから、父ヤコブが死んだとき、兄たちはヨセフの仕返しを恐れました。しかしヨセフは既に赦していました。だから、涙を流しました。私たちも兄たちのようです。キリストによって一切の罪が赦されているのに、まだそうでないかのように思っています。だから、何か悪い事が起きるのではないか、罰を受けるのではないかと恐れや不安を持ち続けているのです。

ヨセフの夢:自分たちを飢饉から救ってくれたヨセフは、17歳の時の生意気な彼ではありません。そして、神が与えた夢の通りに、兄たちはヨセフの前にひれ伏したのです。42章とは違い、ここではヨセフだと分ってひれ伏しています。ヨセフの夢とは37章6~8、19 ,20節。神が与えた夢は、人間が取り去ろうとして悪をなしても、その悪を神は逆手に取って善に、即ち、救いに変えてしまわれるのです。それをパウロは、神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8章28節)と記しました。

50章20節:ヨセフをイエス・キリストと言い換えますと、ユダヤ人らは何の罪も無いイエスを十字架にかけて殺すという恐るべき悪であり罪を実行しましたが、神はそれを善に変え、多くの人の命を救われました。驚くべき事です。十字架上のイエスほど痛ましい姿はありませんが、それは本来、私たちが受けるべき罪の刑罰でした。それなのに何の罪も無いイエスがその身代わりとなって死なれたのです。人間の罪と悪を逆手に取って、救いと善に変えられたのが十字架の救いです。そこに込められた驚くばかりの愛に胸を刺し貫かれます。そして、兄たちがヨセフの前に心からひれ伏し拝したように、私たちは主イエスを拝し、ひれ伏すのです。フィリピ2章10、11節:

これがヨセフ物語の指し示している結論です。どんなに辛く耐えがたい事があったとしても、神は最後には祝福と賛美に変えてくださいます。老後の心配は無用です。アブラハムもイサクもヤコブも、失敗や過ちを犯しながらも、最後は満ち足りて死を迎えています。創世記は信じる者の幸いを、読者に伝えようとしているのです。

 

  先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2021-09-26 K・H兄)