2021年8月22日
主日礼拝
《建徳要旨》
「忘れたい過去~記憶のいやし~」
創世記41章46~52節:ヨセフは長男をマナセ(忘れさせる)と名付けて言った。飢饉という困難な時代が来る前に、ヨセフは2人の子に恵まれます。長男をマナセと名付け、「神が、私の苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」と言いました。忌まわしい過去は忘れたい、しかし、忘れられない。酷いことをされた心の傷はなかなか癒えない。自分の力だけでは決してできないから「神が、忘れさせてくださった」と言ったのです。ここで何故?と思うことは、トップの地位にまで引き上げられた後も、ヨセフが故郷にその連絡をしていないことです。「お父さん、私は元気です」と便りを出せそうなものです。ところが、ヨセフは連絡を一切していません。聡明なヨセフは自分が既に死んだことになっている、と分かっていたからでしょう。
英語で忘れる=Forgetは、ゆるす=Forgiveに通じる。忘れるは、兄たちを赦すこと、ヨセフであってもすぐには兄たちを赦せなかったでしょうが、忘れようとし、受けた心の傷をそっと覆い隠そうとしました。忌まわしい過去から解放され、心の傷を癒されたのが子どもの誕生の時でした。マナセと名付けた心の中を探ってみました。創世記5章のエノクが、神と共に歩み始めたのは、メトシェラが生まれた時からです。
「記憶のいやし」という言葉があります。いじめや虐待などを受けて心の傷を負い、その記憶に苦しむのです。記憶のいやしは傷を受けたその時の記憶に戻り、そこにイエス様をお迎えして癒していただくのです。次男の名がエフライム(増える)なのは、過去を乗り越えた人は、豊かな祝福が増えることを示唆します。
詩編139編24節:迷いの道=傷ついた道→とこしえの道(イエス・キリスト)に導いて下さい、との祈りです。ヨセフはイエス・キリストの型でありつつ、主イエスそのものでもあることが更に分かって行きます。
(新共同訳)御覧ください わたしの内に迷いの道があるかどうかを。 どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。
(2017新改訳)私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、 私をとこしえの道に導いてください。
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2021-08-22 K・H兄)