2021年6月20日
主日礼拝
《礼拝》
礼拝讃美歌⇒120番(旧199番)
『丘の上に立てる十字架』
聖書⇒マタイによる福音書11:28~30節
『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」』
礼拝讃美歌⇒427番(聖歌404番)
『われに来よと主は今』
聖書⇒詩編 18:3~4節
『主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。
ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。』
詩編 18:32節
『主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。』
詩編 18:47節
『主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。』
礼拝讃美歌⇒141番(旧206番)
『千歳の岩よ』
《パン裂き》
聖書⇒マルコによる福音書14:22~25節
『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」』
礼拝讃美歌⇒142番(旧58番)
『渡されたもう』
《建徳》
聖書⇒マタイによる福音書5:41節
『だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。』
聖書⇒マタイによる福音書6:24節
『「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」』
聖書⇒出エジプト記32:1~8節
『モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」』
聖書⇒テモテへの手紙一 6:7~10節
『なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。』
礼拝讃美歌⇒395番(旧252番)
『慈しみ深き』
《建徳要旨》
マタイ5章41節:だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。1ミリオン=1500mで、ローマ兵から「この荷物を運べ」と強いられることがありました。イスラエルはローマの植民地だったからです。拒否することは許されませんから、嫌でも従わざるを得ませんでした。義務だからです。イエスは、更にもう1ミリオン行くよう教えました。それは義務を超える生き方です。このことから、しなければならないことを嫌々するのではなく、自発的にする生き方が示されます。学生なら勉強、社会人なら仕事に意味とやりがいを見出せたら素敵です。仕方なく義務を果たすのではなく、それを超えてもう1ミリオン行くことです。実行はとても無理に思えますが、私たちがそうしようとするとき、主イエスは共に歩んで下さいます。主御自身,もう1ミリオン一緒に行かれる方です。
6章24節:だれも、2人の主人に仕えることはできない。・・・あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。できないと言われていても、私たちは神と富とに仕えることができる、と思ってしまう。神から恵みをもらい、更に富も得て豊かな生活を送りたいからです。もし優先順位を間違えなければ、神は必要な富を与えてくださいます。しかし富の背後には恐るべき魔物がいて、人を奴隷にしてしまいます。富=お金で、モーセがシナイ山に登って見えなくなると、麓では民が金の牛像を神として礼拝しました。金の牛はお金で、神になっています。これが現実です。パウロはⅠテモテ6章7~10節で、金銭欲は悪の根で、神への信仰から人を引き離すと言っています。生きるために必要な富・お金は、天の父なる神に仕え、神を第一にするなら、必ず与えられます。反対に富を第一にして追い求めると、その奴隷とされて人間性が失われます。私もそうでしたが、悔い改めて救われ、今があることを感謝。 (K・H)
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2021-06-20 K・H兄)