2021年6月6日
主日礼拝
《礼拝》
礼拝讃美歌⇒216番(聖歌521番)
『キリストには代えられません』
聖書⇒ヨハネの黙示録14:13節
『また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」』
礼拝讃美歌⇒523番(旧135番)
『イエス君にありて』
聖書⇒コヘレトの言葉3:1~11節
『何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。』
礼拝讃美歌⇒327番(旧95番)
『われの時は』
《パン裂き》
聖書⇒コリントの信徒への手紙一11:23~28節
『わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、
自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。』
礼拝讃美歌⇒142番(旧58番)
『渡されたもう』
《建徳》
聖書⇒マタイによる福音書6:1~6節
『「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。』
聖書⇒マタイによる福音書16:24節
『それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』
聖書⇒ガラテヤの信徒への手紙2:19~20a節
『わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。』
礼拝讃美歌⇒15番(旧142番)
『ものみな廃るも』
《建徳要旨》
『人の目よりも先に、神の目を意識する』
マタイ6章1~6節:あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。偽善者とはファリサイ人らのことで、彼らのすることは、すべて人に見せるためでした(マタイ23章5節)。神よりも目に見える人を意識し、人からの称賛を第一に求めました。ほめられたいのは、万人の求め。しかし、人からの報いを受け取ったら、神からのもっと大きな報いは与えられません。人からの称賛は、得意がらせ高ぶらせてしまう。しかし、神からの称賛は、人を低く謙遜にし、その霊性を幸いにします。「キリスト教は御利益宗教ではない」と言われたりしますが、主イエスは神からの報いを約束しています。隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる(4節)と。ただし、人からの報いを先に受け取ったら、神からの報いはありません。
だから、右の手のすることを左の手に知らせてはならない(3節)のです。右の手=善行、施し。左の手=虚栄心、報いを求める自我。だから、これは不可能。もし出来るとしたら、自分自身から解き放たれている人にだけ。人に良く思われようとの思いから解放され、神を第一に出来る人だから。そこに本当の自由があります。その自由を与えるため、主イエスは「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(マタイ16章24節)と、言われた。最初、これは無理な要求だと思いました。しかし、そうではないのです。自我は十字架によってのみ死に、キリストと入れ替わるからです。生きているのは、もはや私ではない、キリストが私の内に生きておられるのです。
いつも目の前に父神を見ていたキリストが、私の内に生きておられる。だから、人からの称賛に左右されない。そして、野の花を見よ、空の鳥を見よ、と指差されます。人からどう見られるかではなく、自分を今の所に置かれた父なる神を第一に意識しているからです。 (K・H)
聖書の言葉: あなた方が祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べて はならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられ ると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなた がたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存 じなのだ。だから、こう祈りなさい。「天におられるわたした ちの父よ・・・」 (マタイ6章7~9節)
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2021-06-06 K・H兄)