2021年5月30日
主日礼拝
《礼拝》
礼拝讃美歌⇒40番(旧50番)
『主イエスはわがため』
聖書⇒ガラテヤの信徒への手紙6:14節
『しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。』
礼拝讃美歌⇒236番(旧197番)
『移り行く世にも』
聖書⇒詩編107:23~32節
『彼らは、海に船を出し/大海を渡って商う者となった。
彼らは深い淵で主の御業を/驚くべき御業を見た。
主は仰せによって嵐を起こし/波を高くされたので
彼らは天に上り、深淵に下り/苦難に魂は溶け
酔った人のようによろめき、揺らぎ/どのような知恵も呑み込まれてしまった。
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。
主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。
彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。
主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
民の集会で主をあがめよ。長老の集いで主を賛美せよ。』
礼拝讃美歌⇒483番(聖歌472番)
『人生の海の嵐に』
《パン裂き》
聖書⇒ヨハネによる福音書6:53~58節
『イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」』
礼拝讃美歌⇒155番(旧208番)
『神の子羊は』
《建徳》
「パウロの生涯 ③ パウ最後最後」
聖書⇒テモテへの手紙二4:6~8節
『わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。』
聖書⇒テモテへの手紙二4:9~18節
『ぜひ、急いでわたしのところへ来てください。デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。わたしはティキコをエフェソに遣わしました。あなたが来るときには、わたしがトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙のものを持って来てください。銅細工人アレクサンドロがわたしをひどく苦しめました。主は、その仕業に応じて彼にお報いになります。あなたも彼には用心しなさい。彼はわたしたちの語ることに激しく反対したからです。わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。』
礼拝讃美歌⇒476番(旧266番)
『いかなる恵みぞ(アメージング・グレイス)』
《建徳要旨》
『パウロの最期』
Ⅱテモテ4章6~8節:わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り通しました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。死を前にして口にする言葉には、その人の生き様が示されているものです。上記の聖句がパウロの最期の言葉。義の栄冠を受けられるのは、私だけではなく、主を待ち望む人には誰でも授けられると言い添えています。自分の人生を振り返り、このように言えるでしょうか。この時パウロは60歳で、ネロ皇帝の時に殉教します。その死は天国への凱旋。こうした勝利の確信と同時に、人間的な側面も記しています。10節:デマスはこの世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまい・・、11節:ルカだけが私の所にいます。16節:私の最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。ここを読むと、主イエスと同じだと気づきます。十字架を前にして弟子たちは皆、蜘蛛の子を散らすように逃げました。でも主はそのことを責めていません。それと同じことが起きています。皆パウロを見捨てて行った。ただ,ルカだけは離れませんでした。パウロはルカに主イエスと、その福音について書き記すよう勧めます。そして、ルカ福音書と使徒言行録が書かれます。それらを私たちは,手に取って読めます。
冒頭のパウロの言葉と、主イエスの最期の言葉は同じ内容です。十字架によって、自らの使命を「成し遂げました」と主は言われました。パウロも自分の使命を果たしました、と言っています。それはパウロと主イエスが一つだからです。パウロの中にキリストが生きておられるからです。それは彼が回心の時に聞いたキリストの言葉「なぜ、私を迫害するのか」は、彼の脳裏にいつも響いていたでしょう。キリスト者=キリスト。パウロの生涯は、キリストと出会った時から最期まで、キリストと一体だったのです。 (K・H)
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2021-05-30 K・H兄)