2021年5月23日
ペンテコステ
主日礼拝

《礼拝》
礼拝讃美歌⇒256番(聖歌498番)
『歌いつつ歩まん』
聖書⇒ガラテヤの信徒への手紙2:20節
『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。』
礼拝讃美歌⇒234番(旧201番)
『生くるかいもなしとひとり』
聖書⇒イザヤ書3:8~9節
『主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。』
聖書⇒イザヤ書3:15~16節
『どうか、天から見下ろし/輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか/あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしに示されません。あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。』
聖書⇒ヨハネによる福音書17:20~23節
『また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。…あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。…』
礼拝讃美歌⇒4番(旧7番)
『アバ父と神を』

《パン裂き》
聖書⇒コリントの信徒への手紙一11:23~26節
『わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。』
礼拝讃美歌⇒148番(旧94番曲)
『主の御旨により』

《建徳》

「パウロの生涯 ② パウロの信仰」
聖書⇒使徒言行録9:19b~22節
『サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。』
聖書⇒使徒言行録9:26~28節
『サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。』
聖書⇒使徒言行録11:24~26節
『バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。』
聖書⇒フィリピの信徒への手紙1:21節
『わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。』
聖書⇒ガラテヤの信徒への手紙2:20節
『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。』

礼拝讃美歌⇒40番(旧50番)
『主イエスはわがため』

《建徳要旨》
『回心後のパウロとその信仰』

使徒9章:キリストに捕らえられ、生き方を180度変えられたパウロは、自分が迫害していたキリスト者の一員に加わろうとした。しかし、過去の経歴から、受け入れられない。彼は、「キリストのゆえに、私はすべてを失いました」(フィリピ3章8節)と述べ、どちらにも居場所がない状態だった。傷心のまま故郷に戻っていた彼を探し出し、同労者としたのがバルナバ(使徒11章24~26節)。もしアナニアやバルナバが居なかったら、後のパウロも居なかった。人を過去の経歴だけで見なかったのがバルナバ。私たちもそうでありたい。
フィリピ1章21節:わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。キリストと私は一体だから、キリストは私の命であり、生活そのもの。命だけでなく、すべてはキリストのものだから。そして、死は利益。死によって私の存在が消えてしまうのではなく、キリストの中に移されて生きるのだと知った時、言い知れない安心感に包まれた。
ガラテヤ2章20節:生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。聖霊としてイエス・キリストが私の中に、永遠の命として生きておられる。キリストが私の内に生きている。それが回心時に聞いた「なぜ、私を迫害するのか」に通じる。更には、キリストの内にいる者と認められる(フィリピ3章9節)。私が神を握っているのではなく、神が私を支え、握り締めている。この主客の転換が起きている。
今日は聖霊降臨日で、キリスト教会が誕生した日。でも、聖霊は主を信じる1人1人の上に個別に降った。AD30年の出来事。その日からキリスト者は目覚ましく増え続ける。その中心に、迫害者であったのにキリスト者に変えられたパウロがいた。 (K・H)

 

 

先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2021-05-23 K・H兄)