2021年5月9日
主日礼拝
《礼拝》
礼拝讃美歌⇒367番(聖歌582番)
『神の御子にますイエス』
聖書⇒ヨハネの手紙一4:10、13節
『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。』
礼拝讃美歌⇒490番(旧276番)
『尊きかなわれさえ』
聖書⇒エフェソの信徒への手紙2:3~6節
『わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。』
礼拝讃美歌⇒476番(旧266番)
『いかなる恵みぞかかる身をも』
《パン裂き》
聖書⇒ヨハネによる福音書6:53~58節
『イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」』
聖書⇒イザヤ書53章
『わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。』
礼拝讃美歌⇒142番(旧58番)
『渡されたもう』
《建徳》
聖書⇒ヨハネによる福音書8:31~36節
『イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。』
聖書⇒ヨハネによる福音書14:6節
『イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』
聖書⇒コリントの信徒への手紙一9:19節
『わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。』
礼拝讃美歌⇒395番(旧252番)
『慈しみ深き』
《建徳要旨》
『真理と自由』
ヨハネ8章31~36節:「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」こう言われてユダヤ人らは「私たちは奴隷になった事はありません」と反論しました。しかし本当は、色々な縛りや捕らわれの中にいたのです。私たちも同じ。そのような中で、主イエスを信じるなら、自由が与えられます。ここでの真理は、イエス・キリスト御自身。イエスは「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(34節)と言われ、そこからの自由は、罪からの解放によって与えられます。それは、私が私のままでいい、人と較べなくていい、何も無理して背伸びをしなくていい、ということです。ありのままに受け入れられているからです。心の病に苦しみ、死ぬことばかり考えていた人がキリストの福音に触れて、そこから解放されたら、どんなに大きな喜びでしょう。
Ⅰコリント9章19節:わたしは、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。本当の自由は、自分のしたい放題にできることではなく、人の奴隷になって仕えることさえできる自由。自分を無にして、仕える奴隷の身になれる自由。そこにキリストの姿があります。キリストは神でありながら、仕える僕となられました。驚くことです。それは信じる者に大きな変化をもたらします。その1つが、幸福の秘訣と呼ばれるもので、「しなければならないことが、したくなることへと変化する」のです。仕事や奉仕が義務ではなく「したいこと」に変わったら、まるで違うようになります。罪から解放されるとは、そうした変化に結実します。それを与えてくれるのが真理であるイエス・キリストです。多くの人が知りたいのは、キリスト教って本物なのか、本当に人を救うのか。私のような者でも神は愛して下さり、生きる喜びを与えてくれるのか、と言うことです。 (K・H)
《聖書の言葉》
サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光 が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、 なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
(使徒言行録9章3,4節)
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2021-05-09 K・H兄)